路上に座る青年が教えてくれたこと

12月の平日の火曜の朝。起きたら窓の外が真っ白だった。ボストンやニューヨーク、東京だったら、「雪だ〜!」と思うところだけれど、ここはカリフォルニア。山にでも行かない限り、雪にお目にかかれることはまずない。よく見ると霧。雨でも雪でもなく霧の朝を迎えたということに、妙に気分が高揚してしまい、朝からちょっと出かけることにした。

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行き先はオークランドの湖沿いの小さな街、グランドレイクにあるベーカリー「Arzimendi」。ここの経営方法がちょっと面白いので現地取材も兼ねて♪

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経営の話は他の記事で紹介するとして、まずは朝ごはんにブルーベリースコーンとビーガンフォカッチャを掴んで、レジでソイラテを注文。ペイストリーに使っている材料はオーガニックだったりヘルシーなものを使っているようで、嬉しい💕店員さんが冷蔵庫から出したのは、私がベスト(原材料に余計なものが入っていない)だと思って愛飲しているソイミルク「West Soy」ではないか。また気持ちがぐぐーっと上がる。今日はいい日になりそうだ。

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さて、窓際のカウンターの隅が空いている。座って、スコーンの美味しさに一人目を丸くしつつ、かぶりついていると、窓の外のある人物に目が留まった。人が行き来する(私が入った時はたまたまいなかった)店のドアの前に、チップを入れる紙コップを置いて寒そうに座り込む一人の青年。よく見ると30代くらいにも見える。「ああ、またこの街の負の部分を見てしまった」と感じてしまう自分を、この後少しだけ恥ずかしく思うことになる。

「小銭乞いにお金を渡すとドラッグを買うから、食べ物をあげた方がいい」というコラムを思い出しながら、コーヒーをすすっていると、店に入る人々が、かなりの確率でお金を渡しているのに少し驚く。朝の忙しい時間、ひっきりなしに人が入って来ては、彼にお金や店で買ったパンを渡したり、軽く挨拶したり、ちょっと会話もしている。当たり前のように「仲間」という感じで拳をつつきあう人も。どうやら、この店に来る常連客とは顔見知りみたいだ。極め付けは、やって来た小ぎれいな老婦人とハグを交わしている。一体どんな関係? そういえばこの青年も、身なりは地味だけど汚い訳ではない。ホームレスって訳ではないのかも。

気づくと、お店に入るお客さんの大部分が彼と知り合いのような気がして来た。何者なんだろう・・・。さっき彼とハグしていた老婦人は私の真後ろに座り、同じくここの常連らしき老紳士とテーブルを共にして談笑している。話しかけようか、もじもじしていると、青年が店の中に来てその老婦人とまたもやハグで挨拶して行ってしまった。

こういうとき、カリフォルニアの人たちはすごく自然に、知らない人に話しかける。そして会話が盛り上がる。超日本人的な日本人(と、自分では思っている)な私には、これがなかなか真似できない。いやでも、これは聞かないと後悔する。思い切って老婦人に声をかけた。「すみません。さっき、外の人とハグしてましたが、彼のことをよく知っているの?」。彼女は声をかけた瞬間は怪訝な顔(たぶん私の英語がわかりにくかったのでしょう)をしていたが、私が彼について聞きたがってることを知ると、笑顔になって話してくれた。

「ああ、マーティン(仮)ね。彼はとってもいい人よ。今35歳だけど、26歳の時から9年間、ここに座り続けているわ。彼が大人になってからずっとよね。オークランドのゲットー(貧困者向け居住地)でくらしている。両親がドラッグで、兄弟は刑務所にいて、とても複雑な家庭環境よ。親がそうだったから彼はドラッグをやらないし、犬をとても可愛がる、彼を知ってる人はみんな彼を大好きなのよ。優しくて繊細で、才能もあるの」。

その話しぶりは、自分の親戚の子供について話すような、親しみ感があった。ああ、そうか。この街ではこういう風に人がつながっているんだ。これが東京だったら、やっぱりこうは行かないだろうなと思ってしまう。「自分が働かないのに、人にお金を乞う人を助けたいとは思わない」といったような意見はよく聞こえてくる。でもそう言う人はそれ以上、どうしてそうなったかまでは聞こうとしないのではないだろうか。他人と自然に会話ができるこの街の人たちは、彼を無視せずに会話する。彼を知る。自然と助けようと思う。そこに全く特別感はない。当たり前のこととして受け入れているのだ。

先ほど、マーティンを「この街の負」として見てしまったが、そういうふうに、人を社会の象徴みたいなひとくくりで見ていた自分に気付かされた。彼は「負」なんかではない。逆境にもめげず、自分ができることをして、人々に好かれている。そういう人々をつなげる輪を作っているのではないか。私も彼のおかげで、この街とその人たちを少し知ることができた。

このブログを書き終わろうとする今、霧はすっかり晴れて雲ひとつない晴天になっていた。カリフォルニアの霧は、出不精な自分が1歩外に踏み出す機会と、人見知りな自分が他人に声をかけてみる気持ちを与えてくれたみたいだ。

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↑さっきまで、マーティンが座っていたところ。また戻って来るのかな。